妻よ、そのイライラをぶつけるのもうやめて

こんにちは、まっしー(母)です。元イライラ妻で、今ほわほわ妻してます。
「妻が子どもにイライラしている」
「家の空気がどんよりしている」
「もう知らん!、と放っておきたくなる」
でも、実はこれ…放っておくことで家族の痛みが深くなるパターンかも…。
怒りの裏には「わかってほしい」が隠れているとよく言われますが、ぶつけられる側にそんな余裕はありませんよ。
だからこそ、つい距離を置きたくなる。
でも、それではやっぱり何も変わりません。
もーーー!
ということで、この記事では、「ただ我慢する」でも、「言い返す」でもない、新しい向き合い方が見えてこれるヒントを、私の体験談でお伝えしています。
怒っている人を放っておかない。
その選択が、家族の未来を、ちょっと変えてくれます。
妻のイライラに巻き込まれて疲れていませんか?

妻が子どもにイライラして怒鳴る…あの空気、正直しんどいですよね。
毎日顔を合わせる相手だからこそ、こっちまでピリつく。
怒りの感情は、ぶつけられる側にとってはきついものです。
職場でもそうです。
できれば避けたいし、できれば穏やかにやり過ごしたい。
けれど、自然鎮火もなかなかない上に、巻き込まれていって大惨事!
たとえば、子どもを怒鳴ってる妻を見て、「自分は優しくしよう」と思って子に寄り添う。
すると、子どもが自分になつく
→ 妻が不機嫌になる
→ 自分も疲れる。
…こんな悪循環、心当たりありませんか。
そして気づけば、「もう知らん」「いい加減にしろ!」「俺に口出しするな!」って、距離を置いてしまう。
でもそれ、問題を手放しただけで、どこかで引きずることになるんです。
応急処置にはなるけど、根本的には何も変わっていない。
イライラ妻に「やめてほしい」は通用しないから、主導権は自分に戻す

だからこそ、行き詰まったときは、相手ではなく「自分を主語」にしてみることが必要になってきます。
「妻がイライラして、子どもに怒鳴っている」
この光景が嫌ならば理想はきっと逆。
「妻が穏やかに子どもと遊んで、それを眺めて微笑ましく思う自分」
こちらが、望む姿なんじゃないでしょうか。
「知らん!」と放っておく選択は、どちらになるか。
いつものパターンで、振り回されているのならば、いつもと違う対応をするチャンスです。
元イライラ妻だった私から、悩むパパへ
先日、NPO法人ファザーリング・ジャパンのスクールで、私の子育て体験をお話する機会がありました。
私が選んだテーマは「夫婦・義母・介護をめぐる、家族のリアル」
私も、かつては「イライラをぶつける妻」だったんです。
でも、ある日、自分が“ぶつけられる側”に立たされたことで、初めて気づいたことがありました。
「ああ、私もこんなふうに傷つけていたんだ。心底嫌だな」
私が「主語を自分にして考える」ことの大切さを痛感したのは、義母との同居が始まった頃のことでした。
義母に言われた、一言が転機だった
最初は、義母との同居もうまくいっていると思っていました。
でも、ある日。
子どもも夫もそろっている食卓で、突然こう言われたんです。
あなたは母親として最低よ!子どもたちが不幸だわ。
あまりの衝撃に、茶碗を持った手を膝に下ろしたまま、言葉がでなくてうつむいて…。
子どもの前にも関わらず、ポロポロと出てくる涙を止められませんでした。
もちろん傷ついた。
理不尽な怒りをぶつけられる苦しさもあった。
義母に萎縮している自分もいます。
でもそれ以上に、こんな姿を子どもに見せてしまった事実が、悔しくて、情けなくてたまりませんでした。
「もう嫌だ。こんな私の姿を子どもたちに見せたくない」
それと同時に、
「こんなイライラしたおばあちゃんの姿を子どもに見せたくない」
とも思いました。
私が同居の時に思い描いていた祖母と孫の姿は、
「おばあちゃーん」
と駆け寄って、ふたりでにこやかに笑いあっている、そんなあたたかい風景でした。
母として否定されてから、私の挑戦が始まりました
こんな祖母じゃ、あの光景は絶対に叶わない。
そう思った私は、ある決意をしました。
子どもが、「おばあちゃん=高齢者 →嫌い」って思ってしまうのだけは避けたい。
だって、自分の親がいじめられている、我慢して悲しんでいる姿を見れば、子どもはきっと「そんなことをする人は嫌い」と思ってしまうから。
私にできるのは、そんな記憶を“上書き保存”することでした。
「私がどうしたいか」を主語にして
朝、あいさつしても無視される。
でも、「おはようございます」と言い続けました。
私が家にいて、義母が無言で帰ってくる。
「おかえりなさい」と声をかけ続けました。
お土産をもらったら、義母にもわたしました。
義母の顔色をうかがって距離をとるのではなく、「私はどんな姿を子どもに見せたいのか」を軸に、ひとつずつ小さなことから変えていきました。
上書きされた「家族の記憶」
その後、義母は脳梗塞を発症し、認知症もすすみ、介護が必要な状態になりました。
正直、その1年間は葛藤だらけでした。
夫婦関係、介護、子どもへの罪悪感…。
でもあのとき、自分の関わり方を変えていたからこそ、子どもたちの中に「おばあちゃんを嫌う経験」として残らずに、記憶を上書き保存できたのかな、と思います。
今では、施設に入所している義母に、子どもたちは嫌がらずに会いに行き、笑顔で話すこともあります。
関係は、変えられる
ちなみに、脳梗塞になる少し前の義母は、私にこう言ってくれました。
神戸にいいお店みつけたの。今度一緒にランチ行きましょ!
あのときの言葉、今でも覚えています。
そして、施設に行ったとき。
孫の名前はあやふやでも、私の名前はほぼ毎回、すっと出てきます。
まとめ:怒っている人を放置しないで。

妻が子どもにイライラしているとき。
家の空気がどんよりしているとき。
「もう知らん」と放っておくのは、一見ラクなようで、実は家族の痛みを深めていることもあります。
私自身が、イライラをぶつけていた側でした。
そして今度は、ぶつけられる側にもなりました。
そのとき気づいたんです。
怒っている人ほど、実は「わかってほしい」「つながりたい」と思っていることに。
そして、見ていた子どももまた、何かを感じ取っている。
だからこそ、誰かの怒りにふれたときは、自分がどうありたいかを軸にしてみてほしい。
避けるより、寄り添うほうがしんどいこともあるけれど、その選択が、家族の記憶を「安心」に上書きしていく力になると願っています。